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未完稿

公開日時: 2021-08-25 05:00更新日時: 2021-08-25 02:32:02「未完稿」

 才能とは刃である。目前に立ち塞がる敵を切り捨て、自らの意思のままにその人生を切り拓くことのできる唯一の武器である。
 ――しかしながら、それはときに自らをも傷付ける諸刃の剣であることを忘れてはならない。その刃が鋭ければ鋭いほど、自らの身体もまた深い傷を負うのだ。

 私は小説家を目指す。今まで私自身を切り裂くだけだったこの刃に存在価値を与えるために。

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 これは、これから小説家となる私の過去であり、そして、未来へと向けた決意表明である。

 私が生まれたのは1996年の1月。母方の祖父母にとっては初孫で、酒好きな祖父からはスルメをよく貰っていたのを覚えている。

 物心ついた頃の私は特に問題行動もなく、ただ絵を描くことが好きな少年であった。
 その頃に持っていた夢は建築家と画家だったと記憶しているが、こうして思い返してみると、幼少期に初めて持った夢と、今追い求めている「小説家」という夢が「創造する者」という点において一致しているのは感慨深い。

 その後、私は幼稚園へと進学するのだが、この頃になると、特定の事象に対する強いこだわりや、今に続く極端な偏食など、少しずつ周りとの違いが現れ始めることになる。とは言え、母親に言われて半ば強引に始めさせられたプールへ真面目に通っていた辺り、まだまだ普通の子供だったのかもしれない。

 そして、小学校。良くも悪くも私らしい6年間である。

 小学生になった私は、1年目こそ鳴りを潜めていたものの、2年生になるといよいよ問題行動が顕在化するようになった。
 まず最初に現れた問題行動は、癇癪である。当時の私は既に多くのこだわりを持っており、そのどれかが侵害されるや否や、すぐにプリントを破り捨てたり、鉛筆を力まかせにへし折ったりと、破壊の限りを尽くしていた。しかも、そのこだわりというのが「同級生と競走して自分が1番に帰宅する」といったささいなものだったので、癇癪の頻度たるや言うまでもない。両親や当時の担任の先生にはかなり迷惑をかけたように思う。

 さらに、問題行動は3年生から更にエスカレートし、座るとズボンがずぶ濡れになるイタズラスツールを作って同級生を座らせてみたり、中庭のビオトープを的に見立てて3階から物を投げ込んでみたり、食べ残しのパンを教室の窓の外に放置してカビが生える様子を観察してみたりと、3年生と4年生の2年間だけで数え切れない程の悪行を成した。癇癪を起こして塾の鞄を用水路に投げ込んだのもこの頃だったと思う。
 一方で、これらの問題行動が表立って問題化しなかったのは、私がASDである可能性に気付いて下さった3年生のときの担任の先生と、私の問題行動を真っ向から否定することなく、他の児童の邪魔にならない範囲で自由をくださった4年生のときの担任の先生の尽力によるものが大きいのは確かである。お2人の先生には機会を得てお礼せねばなるまい。

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 転機が訪れたのは小学5年生のときであった。

 その年、私のいた小学校に、1人の男性教諭が転勤されてきた。
 始業式の日、その大柄な髭面の男性は私のクラスの担任として指名された。その存在感はもちろんのこと、私にとっては初めての男性の先生だったために、私には多くの不安があった。
が、その不安はすぐに杞憂だとわかることになる。
 一見すると気難しそうなその先生は、口を開くや打って変わって軽快な調子で自身の生い立ちやあだ名の由来を自虐混じりに語り始めた。教室には児童の笑いが巻き起こり、こうして、笑顔とともに私の小学校生活最高の1年が幕を開けた。

 かの恩師との思い出は、数え上げればキリなどない。
 合宿で泣いて眠れなかった私と同じ2段ベッドの下の段で横になってくださったこと、心の籠もった道徳教育で私に意志を持つことの大切さを教えてくださったこと。先生自身も、児童にただああしろこうしろと言うだけでなく、自身も禁煙することを公言され、そしてそれを貫徹されるほどに意志の強い方であった。

 私は何事にも疑り深いタイプの人間なのだが、その恩師の心の籠もった言葉のうちに、今疑いを持っているものはない。
 「名字を呼び捨てにしたらその人の先祖にも失礼だからするな」といったものも含め、私はこれからも恩師の教えを守り続けるつもりでいる。

 恩師のお陰で私の悪行は徐々に落ち着いてゆき、その年の終わりには、かつて音楽の授業の度に教室を飛び出して校舎中を走り回っていたクソガキは、他の生徒に混じって着席して授業を受けられるまでになった。

 そして、後に私はこの恩師の出身高校に進学することとなる。

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 6年生になった私は8年ほど続けたプールをやめ、県内では最も大規模な中学受験対策塾に入塾した。

 この年、私の住む県は県内の公立高校で最も偏差値の高い高校、すなわち、かの恩師の出身高校に、附属中学校を開校させた。
 小学生の保護者の中では、「県立中学校」は学費の負担なく我が子を進学させられる進学校としてまたたく間に常識となり、その流れで私も中学受験をすることになったのである。

 とはいえ、私は前年度に恩師のお陰で座って授業を受けられるまでにはなっていたものの、黙々と真剣に授業を受けられるような、親の自慢になる子供ではなかった。

 塾での思い出と言えば、授業中の私語が問題になって隅の席に追いやられ、その席の横の壁に空いていた穴に鼻クソを放り込んでいたことと、試験直前に行われた休日授業に耐えかねて、教室から逃走したことくらいである。

 しかし、私は県立中学校に合格した。
 真面目に勉強していたわけではない。しかし、受験会場で試験問題を目にした瞬間、私の脳内から一切の雑念が消え去った。
気付けば、私は普段なら解けないような問題を黙々とこなし、自分に解ける問題とそうでない問題を的確に見極め、解答用紙の上に鉛筆を走らせていた。
 今から思えば、あれはADHD特有の過集中と呼ばれる類のものだったのかもしれない。いずれにせよ、私には憧れの高校へ高校受験なしに進学する権利を勝ち取ったのである。

 母によれば、私は多くの問題行動により塾側からは退塾を進められていたそうなのだが、最後まで籍を置いていたために、結果としては塾側にとってありがたい合格実績となったことであろう。

 私はいくつかの問題を起こしながらも、担任の先生にもよくしていただき、無事に小学校を卒業、県立中学校へと進学した。
思い返せば、小学校ではどの学年でも先生方には優しくしていただき、いじめもない素晴らしい6年間をいただいたものだと

 余談ではあるが、私は県立中学校に合格していなければ、中学校には行かないつもりでいた。
 これは、勉学に不安があったとか、他の小学校出身の見知らぬ同級生との人間関係を恐れたからではない。
 結論から言ってしまえば、単に「学生服を着たくなかった」だけである。
 これが、ASD特有の単なるこだわりであったのか、「中学生」というグループのステレオタイプに押し込まれるのが嫌だったのか、あるいは、それが「男性の制服」だったからなのか。今となってはよくわからない。
 しかし、その道に進んでいたのなら、私には恩師と同じ高校から大学へと進学することはなかっただろうし、こうしてこの文章を執筆することもなかったように思う。

 ともかく、私は恩師の出身高校の付属校の制服ならと、乗り気ではないものの袖を通し、中学生となったのである。

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 しかしながら、私の中学生活は期待していたほど華々しいものではなかった。

 まず最初に、進学校であるからには、当然のことながら学力もそれ相応のものが要求される。にもかかわらず、私はと言えば、小学生の頃から相変わらずの不真面目さで、宿題はやらないのがデフォルトで毎日補習に呼び出され、放課後は補習をサボるために数学の先生から見つからないように学校を脱出するのが日課であった。

 もちろんそのような状態で成績などよいはずもなく、多少興味のあった理科以外の科目の成績は軒並み2か3で、音楽に至っては1というさんさんたるものであり、あまりにも勉強しなかったため、しまいにはテスト前に勉強をするだけで母から小遣いが出るという有様になってしまった。

 こうなると、自己肯定感が下がり通しなのは必至なわけで、とうとう私は小学生の間続けていたイラストの趣味もやめてしまった。

 そんな私だったが、ここから1つの趣味に導かれ、生物学の道へと進んでゆくことになる。

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 それは1年目の中学生活が終わる春のこと、我が家に1本のレモンの木がやってきた。

 いわゆる変わり者だった私は、普通の人ならまず気にしないであろう、そのレモンの台木が気になってしかたがなくなった。
 これはレモンなのか、それとも違うのか。違うとすればこれは何なのか。そんな疑問を解決するために私は図鑑を読み漁り、気付けば樹木マニアになっていた。

 樹木マニアとなった私は、生物学に強い興味を持つようになった。
 好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、高校に進学して生物学の授業が始まると、その成績は家の庭の樹木の本数に比例してうなぎ上りになり、3年になる頃には学年首位を争うようになっていた。

 私は生物学者を目指すことにした。

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 こうして迎えた、受験生としての1年間。

 それは、私にとって初めての「本気で学ぶ」1年になる――はずであった。

 夏前に高校に招かれた物知りそうな予備校の先生に向かって、震える声で、これから1年足らずの勉強で自らが旧帝大を狙えるか、そんなことを問ったのを今でもよく覚えている。

 その日から私は数学と英語を重点的に猛勉強を始め、夏休みを犠牲にして、それまで経験したことのないような時間をかけて勉学に励んだ。

 だが、結果から言えば、この後、私は(後に努力だけで伸びるものではないと知る)数学の成績を伸ばせなかったことに行き詰まり、ついには挫折してしまう。
 センター試験の点数はそれまでの模試よりも高いものでこそあったものの志望校の合格ラインには届かず、2次試験の出願前には、半泣きで目標だった生物学科を諦めようと言い出した私を両親が必死に説得して止めてくれた。
 そんな両親に加え、時間を割いて私に合った学科のある大学を調べてくださった担任の先生のお陰もあり、最終的には受験校のレベルを2段階ほど下げ、(それでも直前の模試でD判定になる背伸び受験ではあったが)まぐれで合格して大学生になることができた。

 結果オーライ、とは言え、結局この1年は私にとって「本気で学ぶ」1年になることはなかった。
 しかし、その間に新しく始めたweb開発と、受験のストレスから逃れるように再開したイラストが後の私の人生を左右していることを考えると、当初の目的こそ果たせなかったものの、私にとっては欠かせない1年間だったのかもしれない。

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 そして、私は夢にまで見た大学生になった。

 大学、そこは自らの既存知識を完膚なきまでに打ち砕く叡智の宝庫であり、何事にもチャレンジできる自由な時間を与えてくれる人生の夏休みでもあった。

 私は主専攻の生物学に加え、副専攻の情報学でも知識を吸収し、趣味のイラストにもいっそう力を入れるなど、知識と自由の湖を謳歌した。

 そうしているうち、気付けば、中学高校時代常に補習の常連だった私の手に、成績優秀者の通知表が握られていた。

 さらに、ブログで公開した鉄道記事をきっかけとして、人生初めてとも言える趣味の合う知り合いもできた。勉強不足で再履修となった単位があったことを差し引いても、私の大学生活は充実を極めていった――4年目を除いては。

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 4年目、つまり、研究室配属。
 そのとき、私は成績優秀者の特権として競合する同級生を強引に蹴落とし、第1希望だった植物分野の研究室のメンバーとなった。

 しかし、そこは私の思い描いていた場所ではなかった。

 地獄耳が仇となった。
 先輩同士の陰口が苦痛だった。
 私を指したものでなくとも、誰かを蔑む刃物のような言葉は私の心を切り裂いた。

 実験は遅くまで続いた。
 満員電車に耐えて最寄り駅まで帰り着き、改札を出れば、外はいつも夜だった。
 闇は私の心を蝕んだ。

 成績優秀者なんかならなければよかった。

 生物学者になる夢はいつの間にか消え去っていた。

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 そして、とうとうその時がやってきた。

 それは、他の研究室との合同ゼミの最中だった。

 先生の些細な叱責を受けた瞬間、私の心の中で何かの糸がプツンと音を立てて切れた。

 その時のことはよく覚えていない。
 私は錯乱した状態で自身がASDであることをその場にいた他の研究室の学生を含む十数人に向かって絶叫し、そのまま半泣きで帰った、これは事実のようである。

 結局、大学は先生方や障がい学生支援担当の方の助けもあって卒業こそできたものの、思い描いていた私の将来像の1つが音を立てて崩れ去った。

 既に合格して40万円の入学金を払い終えていた大学院は進学を辞退した。
 両親が汗水垂らして用立ててくれた40万円は私のせいでもう返ってこない。

 その後、私は副専攻で成績のよかった情報学に目をつけ、1年を他大学の聴講生として工業デザインなどを学びながら過ごした後、情報系大学院へと進学する。

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 情報学、それは逃げ道だった。

 唯一絶対と考えていた生物学者への道が絶たれた私が、苦し紛れに見出した、それらしい逃げ道に過ぎなかった。

 もともと、そこには学びたいことはなかった。
 だから、そんなところで上手くやっていけるはずもなかった。

 担当の先生にはとても良くしていただいたが、そこに私の求めるものはなかった。

 やはり研究活動は上手くいかず、次第に休みがちになった。

 それは、修士論文の期日が迫り、いよいよ卒業が危うくなっていた冬の日、私は偶然にも学生居室に鍵を定期入れと共に閉じこんでしまった。
 先生に申し出て合鍵を借りれば済む話である。
 けれど、その日ほど足が重い日はなかった。

 私は薄暗い階段の隅にうずくまって、ただただそこで何時間も過ごした。
 明り取りの窓の外に見える色はやがて黒に移り変わり、建物の中も真っ暗になった。

 何もすることがなかった私はふとスマートフォンを手に取った。前年度の脳科学の講義で目にした海外の研究成果が頭をかすめた。たしか、数学の学力は生まれたときにはもう決まっているが、芸術では先天的な要因の寄与は少ない――

 私はこう調べた。
 「漫画家 専門学校」

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 その後、私はようやく先生の居室に足を運び、帰途に就いた。

 それから、私はあの手この手で両親を説得し、「専門学校漫画家コース在籍」という今に至る。
 大学と大学院に加えて専門学校まで学費を用立ててくれた両親には感謝しかない。

 ここは最高だ。
 今まで趣味でしかなかったイラストを本気でやらせてくれる。

 既に大学院を卒業している私にとって専門学校卒業はもはや重要ではなく、そこに今まで私を苦しめてきた緊張感はない。

 私は小学生以来の安心感に包まれながら、大学生活初期のような楽しい学びを謳歌していた。

 ◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆

 そんな折、私には、愛したいと思える人ができた。

 私は、あの子がちょうど今年度に大学受験であるということまでは知っていたが、もとはそれ以上詮索するつもりもなかった。

 けれど、あの子が私を大切に思ってくれていると知ると、少しずつ見方が変わっていった。
 あの子を愛したい。愛してやりたい。そう思うと、とたんにあの子ことが家族のことのように思えてきた。

 あの子の勉強の相談に乗ってあげたい、あの子に何かアドバイスしてあげたい。そう思ったとき、私はふと自らの受験生時代を思い出した。

 私には何ができるだろうか?
 生物と情報しか得意科目ではない私に、何ができるというのだろうか?

 せめて、あの子に寄り添ってやることならできるだろうか?
 だが、私はあの子に共感できるのだろうか?

 そう考えたとき、私は初めて、自身のハリボテのような人生を恥じた。
 まぐれで受かった大学で身につけた、見掛け倒しの知識。私の人生を振り回し続けたこの知識。思い返せば、私にはこの知識以外に何もない。私はこの知識をただ闇雲に振り回しているだけで、努力を成功させたことなどないではないか。

 いつしか、今まで楽園のように感じられた専門学校での学びも、虚構のように感じられるようになっていた。

 あの子が努力すると決意したというのに、私は一体何をしているというのか。
 専門学校とて、ただ学校が敷いたレールに乗れば楽ができるという浅はかな考えで選んだ逃げ道ではないのか。

 私という人間は自らの力だけでは何もできない人間だと言うのか?

 ◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆

 そして、私は決意した。
 私は小説家になる。

 目指すのではない。なるのだ。
 誰かに教えてもらう道ではなく、自分一人の力だけで開拓する道を進むのだ。

 あの子が努力するというなら、私もそれに見合うだけの努力をする。
 あの子の決意に比べたら、少し足りないかもしれないけれど、それでも、私は決意したのだ。

 幸いにも、私はあと1年半、専門学校生として純粋に創作活動に打ち込むことができる。私はこの1年半を使って、いや、なるべく今年度のうちに、小説で出版社の賞を取ろうと思う。

 8年間私を振り回し続けたこの知識に存在価値を与えるために。
 そして、やがて夢を叶えるあの子に、胸を張って会えるような人間であるために。

 ◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆

 この決意に終わりなどない。あってはならない。故に、私は決意をしたためたこの文章を未完の原稿として扱う。

 私が将来、文学者として大成し、小説の世界から退くことに未練の欠片もなくなったその日、私はこの文章を完結させ、題名を与える。
 この文章は私の未完の処女作であり、そして、いつか私の最終作となるものである。
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